師を選ぶ。
誰を師と仰ぐかは、自分の感性の問題だと思う。
同じようなことを推奨していても、人が変われば伝え方もやり方も変わる。
誰に学び、誰を見本としたいか。
それによって、師を選ぶ基準が変わる。
自分にあった師を、間違わずに選ぶことが大事。
周りの評判じゃない。
自分の琴線に触れるかどうかだと思う。
師は、選ぶもの。
会いたくなる人。
成長したい時は、刺激があって求めているモノをもっている人に会いたくなる。
脳内活性したい時は、意地悪な予想外の質問をしてきて、予想外の答えをくれる人に会いたくなる。
楽しみたい時は、似たような感性を持っていて、同じ目線で楽しめる人に会いたくなる。
おちてる時は、決してドアをこじ開けずそばにいても邪魔をせず、でもこちらがノックをすると笑顔でドアを開けてくれる人に会いたくなる。
あの人に会いたくなった。
人間としての恥じらい。女性としての恥じらい。
最近、ずっと違和感があることがある。
FBなどでもよく上がってくる、“女性が性に対してオープンになろう”系の記事やブログ。
だいたい書いてる人が、元風俗嬢だったりする。
私は、別に、性に対してオープンにすることを批判するつもりもないし、風俗で働いていた(いる)人を批判するつもりもない。むしろ、勇気があるし、それで救われている人もいると思うし、ある程度は必要なことだと思う。
でも、違和感というか、怖いなと思うのが、勘違いする人が出てもおかしくないということ。
人として、女性として“恥じらいを持つべきところ”を、“いいこと”と勘違いして、世の中が変な方向に行かないだろうかと、世の中を心配したって仕方がないだろう いち人間 の私なんだが、なんだかそこにいいねやコメントしている人たちにも違和感を感じる。
裸も、性も、特定の人に対してオープンにするから神秘的で、神々しく、特別感が得られるのではないだろうか。
その特別感のために苦しんでいる人がいるといたら、改善するべき点があるのだろうけど、ざっくばらんに不特定多数と共有することなのか?と感じる私は、考えが古いのか…。
私も下ネタの話もするし、性に関してオープンに書いているブログを読んでいるけど(H系ではなくね)、この手のブログは、本当にピンキリのだなと思う。
まだ、自分自身の中でも、ブログ記事の中でも、観察中のところだけど、今のところ違和感は拭いきれないでいる。ということを、書いておきたくなった。
まあ、これも、書きたい人は書けばいいし、読みたい人が読めばいいし、読みたくなければ読むなよって話になるんだけれども。
ただ、いろんな情報や意見を自由に発信できる世の中になったからこそ、自分でいろんな角度から見た情報を得て、自分の考えをきちんと持たないと簡単に流される世の中だなと思っている。
現に、今起きているいろいろな事件のニュースや情報に、その時その時読んだ(聞いた)情報に、気持ち(思考)が流される自分がいる。
どれが本当でどれが嘘で、それが嘘だとしたらその情報の後ろにどんな思惑があって、何をどう操作しようとしているのか、なんて頭の悪い一般人の私にはわからないからなぁ…。
思考を整理するために、前々から興味のあった本を買ってみた。
アマゾンの中古で、50円(送料込みで300円)
ウケる。なんて世の中なんだろう。
家まで届いて、300円。
20年前はこんな世の中になるなんて思ってなかったなぁ(笑)
■
スタバに行って毎回思うこと。
スタバを利用するお客様に変な人はそーいない。
スタバの雰囲気がそうさせるのだと思う。
オシャレで、スタイリッシュ。なお店にあう客でいようという意識が少なからずあると思う。
服装とかじゃなく、中身。意識。品。オーラ。
それを生み出しているのは、お店の持つブランドの力。それと、働く人。
お店はお客を選べると思う。
それは個人のお店でも同じだと思う。
来てほしい客層に自分を合わせる。
今の自分が理想と違うなら演じる。演じているうちに身につく。
これって日常生活の友人関係でも同じだと思う。
仲良しグループなんかを観察すると、似た者同士が集まっている。
似た者同士は居心地がいい。
固まるのが悪いと言っているわけではない。
それを、選ばないといけない。
定期的に、自分を客観的にみて、そこでいいのか。そこで学ぶのもがあるのか。そこで盗むものがあるのか。
成長も進歩も望まなければ、ただ居心地がいい場所にいればいい。
でも、自分が成長や進歩、変化を望むなら、外へ出るべき。
居心地のいい場所は居心地のいい場所として置いといて
成長できる場所を別に作るべき。
共感は、優しい。
共感は、助けてくれる。
でも、共感だけに成長はない。
と私は思う。
共感+刺激
共感+恐怖
共感+不安
共感+憧れ
共感+勇気
そこに、成長とレベルアップできる何かがあると思う。
簡単なものに、進歩はない。
何かを乗り越える為に何か(労力、時間、お金、など)を惜しまずだすという行動をともなうからこそ、欲しいものを手に入れられるのだと思う。
仲間がいるのは心強い。
でも、仲間から離れることも時には必要。
なりたい自分に近い“場所”に自分の身を置くことの大切さ。
それを忘れないようにしたい。
スタバに、今どきの高校生も結構いた。
高校生のおこずかいからしたら、安くないコーヒー代。
でも、その大人な雰囲気に自分を置くことで、その場に恥ずかしくない自分でいようとしていると思う。
きっと、この子たちは、マナーや礼儀がきちんとした大人になるんだろうな、なんて人間観察した時間だった。
試されてるよ、これは。
恋愛できるのも、結婚できるのも、その人の意識と努力だと思う。
離婚して丸3年。
元旦那が、再婚するらしい。
3度目の結婚。私との結婚が2度目だったので、今度で3度目。
この報告を聞いて「よかったね。おめでとう!」(+笑えるイヤミを少々)と返信したものの、心中複雑 な私がいる。
なぜ複雑なのか。好きでもなければ、憎んでもいない。
失恋した気分でもなければ、自分だけ幸せになって!と悔しいわけでもない。
なんだ?と自分でも複雑な心中を理解できない。
元旦那と友達な関係 が自慢に思ってるところが何処かにあったのかもしれない。誰に対してどう自慢なのかはよくわからないが。友達な関係 とおもってるのは私だけかもしれないが、家族から他人 ではなく、家族から知り合い よりも近い、家族から友達 になったと思ってた。友達が1人減る ということに頭が整理できていないのだろうか。
まあ、実際、ドロドロ別れたわけでもないし、離婚して1年目には2人でご飯に行ったりもした。用があればなんの気兼ねなく連絡できる関係 ではあった。
今回も聞きたいことがあって私からメールしたのだ。
質問→返答→ありがとう。で終わるはずだった。が、返信があった。それが、この内容。
まあ、私と結婚するときも、前嫁に、再婚することを連絡してたような人だから(笑)伝えとこう と礼儀として思ったんだと思う。なんの礼儀だ?って話だか。
考えてて気づいた。
私は、この出来事で、自分が欠陥があるのでは と思えて、将来への不安が大きくなったののだ。
日頃から、母親には一人で生きていくことになるかもよ とか、結婚する気があるなら急がないともう誰も相手にしてくれんくなるよ とか言われてるもんだから、そんなことない まだ大丈夫 と思っているのだが、やはり心のどこかで「この先、一人かも…」という不安は少なからず持っていた。
それが、後ろの方に隠れていたソレが、ドーンと現実味をおびて前に出てきたのだ。
離婚 とは、人生の再スタート。そのスタートを同時にきった相手が、同じところを走っていたと思っていたら、先にゴールしていたという、青天の霹靂 とでも言おうかという状況。
結婚がごーるとは思ってはいない。だが、ずっと一人でいたいとも思っていない。
同じスタートをきった相手が、再婚するという。
再婚するには、出会いがあって、期間はどーであれ恋愛して、結婚しようという同意と決断があるわけで。
この3年間…いや、私と食事に行った時はフリーだったから、この2年間で、その工程をやっていた ということになる。
私は…付き合った人もいなければ、ネタになるような事もない。この差はなんなんだ。と思ったときに、何か私に問題が?あー私はもう周りに相手にされなくなっているのか…このまま一人なのか…男性とのコミュニケーションの取り方に問題が…なとなど。勝手に一人で落ちていったのである。
でも、よくよく考えてみると、そもそもこの2年間、恋愛に対して興味がなかった。出会おうとしてないから出会いを求めるような外出をしてないし、対してオシャレに気をつけてた訳でもない。
そう、原因は自分にあったのである。
やることもやってなくて、恋人も結婚もできる訳が無い(笑)
元旦那は、仕事も忙しいが、それなりに出会いを求めて目を外に向けていたんだろう。人からの紹介なども多かったと思う、人柄的に。
私は外に目を向けれていなかったなぁ なんて、いまさら2014年を振り返る。
と、わかったところで、まだ私の興味が恋愛に向いてない。ガツガツするのも嫌だし。周りに焦ってるって思われるのも嫌。って自分でブレーキかけてるのかもしれないけど、恋愛にかける余裕と時間とお金がない。まあ、この3つは、自分で作るものなんだけれども(笑)
新年早々、気付かないといけないところを気づかせてくれる出来事に感謝。
義理と建前と友情と人との関係性と。
気分が乗らない。
そんな約束が、ある。
原因は、いくつかあるのだが…
イヤな言い方ではあるが
それに費やすであろう時間とお金を考えると、そこまでのメリットがない気がしてならない。
メリット とか、デメリット とかを、友情や人間関係の判断基準にすると、めっちゃ損得勘定で動く、めっちゃ嫌ーーーな人間な気がして、普段は絶対に…今までだったら絶対に口に(文章にも)しなかったと思う。
でも、時間にもお金にも限りがある。
それ以上に優先したいことがあるということの表れだと思う。
“その”友情が、自分の中で上位を占めなくなったという事。
“そこ”で繰り広げられるであろう会話と情報交換という交流が、自分の中で上位を占めなくなったという事。
“そこ”で得られるであろう情報が、自分の中で意味のあるものとなるであろう確信が、薄い予感。
過去にこんな気分で、「約束したんだから」と自分を律して参加したこともたびたびある。
思ったとおりで、行くんじゃなかった と思ったこともあれば、思っていたことに反して楽しくて盛り上がって、断らなくてよかった と思っこともあった。
人と人との繋がりは、大事にしないと行けない。
自分の気持ちを殺して繋がりを続けることはない。
1回会わないだけで切れる繋がりは、遅かれ早かれ切れるものだと思う。
人とのご縁があって、今の自分がある。
ワクワクで無理をしてでも会いたい(行きたい)ものと、気分が乗らないものがある。
関わりたいと思っている人、
知りたいと興味の湧いてる集まり、
自分の周りの今関わってる人、
それを客観的にみると、今の自分とそれまでの自分に温度差がある。
違う“場所”に、移行したんだ。
そう感じる時が人生には何度かある。
それまでにしがみついてた人間関係、職業、環境、考え方、価値観など、必死にしがみついていた事が全然大したことないと感じる時、
違う“場所”に移行したんだと思う。
“それまで”を0にするわけではなく、最前列に並べていたものを、専用のフォルダーに入れて端にしまう。
そんな感じ。
必要な時は取り出しせるし、なくなるわけではない。
ただ、最前列には違うものを並べたいのだ。
新しく最前列に並べるものを集めている最中なんだ、今は。
子供が夢中になってたオモチャをおもちゃ箱にしまって、新しいオモチャに夢中になるような。
今回も、約束を優先することで心が満たされることになるかもしれないし、他を優先することで心が満たされることになるかもしれない。
その、取捨選択 で、柄にもなく頭を使っている今日この頃。
でも、そんなことを考える自分が面白い。
冷静に並べ替えをする自分が面白い。
私も成長したなって感じる時間。
私のファイルも増えたなー。
今は、あれとあれと、あの人とあの人と、あの場所とあの空気感とを一番前に並べたい自分がいる。
それでいいの?
そこ、まだ早くない?
でも、これがいいの!
そんなやり取りが繰り返される。
3か月後、一年後、三年後、どんなファイルが並んでいるんだろうな。