lau’s blog

脳内垂れ流しブログ。

一人じゃ何もできなくても、誰かとなら何かできるなら、一人で何もしないよりいいと思う。

一人で動けるか動けないで、良しとかダメとか判断することがあるが、その判断でいくと私はダメだな。
私の思いつく面白いことは、ほとんどが誰かとすることであるため、一人で には当てはまらない。

でも、一人 で何もできなくても、誰かと何かができるなら、何もできないわけじゃないんだからいいんじゃなかろうか。

誰かと一緒のほうが楽しい。楽しさを分かち合えるし、喜びを分かち合える。
一人でやることが好きな人は、一人で喜びや達成感をかみしめるのが好きなんだと思う。
私は、誰かと楽しみ、誰かの反応を楽しみ、誰かが喜ぶ姿を見るのが好き。
どっちがいいかなんて、誰かが決めることではなく、本人が良ければいいのだ。
だって考え方も感じ方も違うんだから。

みんな違って当たり前。自分が満足できればいい。良いか悪いかは自分が決める。
その考え方が定着してくると、どんなことにもどんな意見にもどんな人にも反論や攻撃をすることも不快感を感じることも少なくなった気がする。

批判したり聞く耳持たない人は、自分が持っている価値観と違うから、自分の持っている価値観が正しいと思っているからだと思っていた。でも、違うかもという考えが浮かんできた。
自分の中にゆるぎない価値観を持っている人は、他の意見をきちんと聞けると思う。私の周りのゆるぎないモノを持っている人はそうだから。自分の中のモノが、ゆるぎないモノではない(自信がない)から、他の意見を聞くと揺らいでしまう恐れがあるから人の意見を聞かないのではないだろうか。自分で自分に「私の信じるモノはこれだ!」と自分に言い聞かせている途中だから、固まっていないから、心を揺さぶられる可能性がある意見を聞かない(ように意識している)し、その恐れのあるものに近づかない(ように意識している)のだと思う。
人間には変なプライドがあるもんだから、長年この考えで生きてきたとか、この考えがいいとずっと外に向けて発信していたりすると、ある日突然違う意見に変えるということができない。今までの自分に縛られて、心が揺さぶられるモノにすぐに移行できないことがあると思う。自分の心に嘘をついているということを認めたくない人は、自分を正統派するために、心を揺さぶるモノを批判することで自分の心にできたカケラをなくそうと(もしくは見えないように)しているのではないかと思ってきた。

肯定する考えを押し付ける人に対しては、その押し付ける行為に対しては嫌悪感をいだくけど、肯定する考えに関しては興味がわく。

批判も押し付けも、恐怖心からくるのだと思う。
認められたい、一人になりたくない、批判されたくない、仲間を募りたいetc。
きっと少数派は排除されるとか、意見が違うからと輪に入れなかったとか、そんな経験があったのかもしれない。

はみ出し者は辛いですよ と言う人がいた。辛いなら、はみ出さない努力をすればいいのにと正直思った。
はみ出し者と分類される人は、自分がはみ出し者という自覚がないか、人と違うことをなんとも思わないか、人に合わせることが苦痛な人だと思う。人に合わせず一人になったとしても、自分を押し殺して人に合わせる方がつらいのだと思う。
はみ出し者が辛いと思う時点で、はみ出すつもりはないのになぜかはみ出してしまっていて輪の中に入れなくて右往左往していることが辛いのだと思う。そこは、自分で改善することであって、周りの人がはみ出し者にすることを批判するべきではないと私は思う。(時と場合によって、周りが極端すぎて悪いこともあるが)

脱線したような、してないような内容になってきたけど私が思ったことは
一人でも行動できて誰かとも行動できるのが(快適に)生きていくうえで一番いいのだろうけど、一人で何もできないと何もしない人よりも、誰かとなら何かできるなら、何かできるんだからいいじゃないか ということ。

ただ、誰かに誘われるのを待ってるだけはダメだと思う。自分がやりたいと思ったなら、自分が言いだしっぺになるべきだと思う。

やれない気持ちの後ろには、不安や恐怖がいる。それを乗り越えると人生は楽しくなると思う。
まあ、楽しくしたいという気持ちがあるかないか、本人の気持ち次第。
やっぱり、“自分”なのだ。というところにたどり着く。